成然最初の寺
利根川を望む閑静な農村、茨城県猿島郡境町一ノ谷に成然房を開祖とする一谷山大法院妙安寺がある。妙安寺は二十四輩第六番成然房の最初の寺であり妙安寺境内から約五百米南の旧当寺境内の銀杏の老木の下には開基成然房の墓がある。建治三年(一二七七)の本廟創立文書に「さしまのじょうねんぼう」とあり『親鸞聖人門侶交名牒』には「常然」と記されている。その示寂は永代法号録に「文永二年十月十日七十二歳」と載せられている。
形見の時刻像
開基成然房は、寺伝によると俗姓は藤原氏中村頼国という公家で、九条関白兼実の御家門と伝えられる。頼国は建保二年(一二一四)勅勘により配流の身となり、下総国幸嶋(さしま)郡境の豪族長五郎方に身を寄せた。その頃、親鸞聖人が稲田の地において御化道盛であることを聞き、従弟の縁にある聖人をなつかしみ、早速、稲田に聖人を尋ねた。無実の罪により配流の身であることを申し上げ、たびたび聖人の庵室を尋ねて「本願他力の妙法は如来出世の本懐、凡夫直入の要路なること」との教えを受け、聖人の弟子となって、法名を「成然」と授かった。承久三年(一二二二)のことである。成然房は、境に立帰り長五郎館に三年居住し、その後、貞永元年(一二三二)一野谷に庵室を結んで、一谷山大法院妙安寺と号した。妙安寺の草創である。 聖人六十歳になり帰洛の折、別れを悲しむ成然房に「我を懐かしく思う時は、この像を見給え」と、自刻像を形見として残された。成然房は妙安寺に、御名号と聖人の御影を安置し、阿弥陀如来の本願を信じ、二心なく念仏弘通に専念し道俗の教化にはげんだ。現在東本願寺にある聖人の御真影は、成然房拝受のものである。「弥陀タノメキガタキ人ヲマツホドニ形見ノスガタ残シテゾオク(親鸞)」成然房は、妙安寺開基から三十四年の後、文永二年(一二六六)十月十日に、七十二歳でこの地に寂した。